今回はテーゼの9、10、11です。
(9)
直観的唯物論、つまり感性を実践的活動として把握しない唯物論が到達する最上のものは、個々の個人の、また市民社会の、直観である。
ここで言う、直観的唯物論とはフォイエルバッハの唯物論を指します。フォイエルバッハは感性的直観によってただちに真実をつかめると考えるので、本来社会的諸関係によってもたらされた規定を物質的存在の自然的性格と捉えてしまうため、感性的現実自体が疎外され、物象化されていることを認識できないわけです。物象化というのは、簡単に言ってしまえば、物事の関係が転倒して、或いは違った形で現れる、ということを指します。
例えば金(キン)なんかを挙げれば分かりやすいでしょう。金はなぜ価値を持ち、高い価格となっているのでしょうか。それは金自体が珍しいから、というわけではありません。金を採掘するのには多大な労働力が必要です。つまり金自体に多大な労働力が集約されているので、蓄積されているので、価値があり、よって高い価格がつけられる訳です。ちなみに、価格と価値は別物です。価格とは価値の現象形態のことを言います。
話を戻します。ここで市民社会と呼ばれているのはブルジョア社会のことです。”市民”にあたる”bürgerliche”というのは”ブルジョア”という意味もあり、渋谷正の翻訳にならって「ブルジョア社会」と訳した方が意味をとりやすいと思います。
直観的唯物論というのは、本来、ブルジョア的な社会的諸関係によってもたらされた規定を物質的存在の自然的性格と捉えてしまうため、それが到達する最上のものはせいぜいブルジョア社会の直観である、と述べている訳です。
(10)
古い唯物論の立脚点は市民社会であり、新しい唯物論の立脚点は人間的社会、あるいは社会的人類である。
ここでいう古い唯物論とは、マルクスが批判の対象としてきた物質主義としての唯物論を同じ意味ととってよいでしょう。そうした唯物論の立脚点はブルジョア社会でした。しかし、マルクスの唯物論の立脚点は、人間的社会(マルクスがここで言う社会というのは共産主義社会のことを指します)なのです。
(11)
哲学者たちはただ世界をさまざまに解釈してきたに過ぎない。肝腎なのは、世界を変革することである。
さて、ついに最後です。
従来の哲学者達は、(主として観念論までを指す)理念や思想、理論によって社会が変わる、そうしたものによって社会に対する認識を変えれば、社会を変えることができると考えてきました。ですから、「ただ世界をさまざまに解釈してきた」わけです。然し、今まで散々述べてきたように、認識を克服することによっては、社会は変わりません。幻想や天国化された諸形態などは現実に存在する諸矛盾から出てきたからです。従って、肝腎なのは、世界を変革することであり、現実的諸関係を変容させていくことなのです。
テーゼの投稿がやっと終わりました。
この解説紛いの文章は、私がまだ10代の頃にフォイエルバッハ・テーゼを読み、その時に考えたことを纏めたものです。従って、概括的な把握をすることが主目的であったため、テキストクリティークとは程遠く、議論も所々粗いかもしれません。にも拘らず投稿したのは、自分が考えたことについてノートみたいなものを残したかったからです。
このテーゼでは、何故理論に実践が必要かをこれでもか!という程述べています。思考上の空論でこねくり回して見ても、現実的な諸関係を変えることが出来なければ、それはある種、疎外された思考、思想といえるでしょう。そもそもなぜ理論が必要なのかと問うことが重要で、それは現実を変容させていくため以外のなにものでもありません。沖縄にある米軍基地がなぜあるのか、そしてそれを無くすにはどうすればいいのか。日本ではなぜ同一労働同一賃金が貫徹されず、同じ仕事なのにも拘わらず、非正規雇用の方が給料が安いのか。そうした現実的な視点に立って考えなければ、理論、思想というものはそもそも意味を持ちません。理論、思想、が意味を持つのはただ、それが現実を変容させようという試みの中だけなのです。
2009年12月19日
2009年12月18日
理論と現実(実践)との関係4 〜テーゼを参照項にして〜
今回はテーゼの6、7、8です。6、7は一緒に検討した方がいいのでまとめて検討します。
(6)
フォイエルバッハは宗教の本質を人間の本質へと解消する。しかし、人間の本質とは個々の個人の内部に宿る抽象物なのではない。それは、その現実の在り方においては、社会的諸関係の総体(アンサンブル)なのである。
フォイエルバッハはこうした現実的本質の批判に立ち入らないので、否応なく、
〈1〉歴史的な工程を無視し、宗教的心情をそれだけで固定化し、抽象的な――孤立化した――人間の個体を前提とせざるをえない。
〈2〉したがって、本質はただ「類」として、多くの個人たちを自然的に結び付けている、内なる、物言わぬ普遍性として、捉えられうるにすぎない。
(7)
したがって、フォイエルバッハは、「宗教的心情」それ自体が一つの社会的産物であるということを、また、彼が分析する抽象的個人が一定の社会形態に属していることを見ない。
さて、このテーゼ6は廣松渉が「マルクスが本質主義を乗り越えた」と言ったものです。しかし、マルクスの本質主義の乗り越えは実はこれよりも前に行われていました。
ここでのポイントはむしろ、フォイエルバッハの感性概念が帰結する社会認識への批判にあると言えるでしょう。フォイエルバッハにおいて人間と人間の結びつきは、彼が原理的基礎とする感性に基づいています。しかし、今までのテーゼでも述べてきたように、人間は現実の感性的存在としてありのままに存在するのではなく、自然的及び社会的諸関係の産物としてしか存在しません。であるにも拘らず、フォイエルバッハは人間の感性自体がうける規定性を無視し、社会的、自然的諸関係から遊離した抽象的な感性に基づいて思考してしまう訳です。マルクスは、このような諸関係からの被規定性を欠落させた感性にもとづいた人間を指して「抽象的な――孤立化した――人間の個体を前提」していると述べたわけです。
フォイエルバッハが、ありのままの感性的人間として捉えたものは、決してアプリオリなものではなく、既に自然的及び社会的諸関係によって規定されており、諸関係の産物なのです。ですから、本当は社会的諸関係の産物である「宗教的心情」をア・プリオリなものだと考えてしまう訳です。
従って、フォイエルバッハは、人間の本質を措定し、それは「「類」として、多くの個人たちを自然的に結び付けている、内なる、物言わぬ普遍性として、捉えられうる」といった次元で終わってしまう訳です。
テーゼ7で述べられていることは、もうすでにおわかりかと思います。フォイエルバッハが、「宗教的心情」それ自体が一つの社会的産物であるということを見ないのは、彼が、人間は現実の感性的存在としてありのままに存在すると考え、自然的及び社会的諸関係の産物としてしか存在しないということを見ないからです。
(8)
あらゆる社会的生活は本質的に実践的である。理論を神秘主義へと誘い込むあらゆる神秘は、人間の実践およびこの実践の概念的把握において合理的に解き明かされる。
このテーゼも今までの話を総合すると全く問題なく理解できます。フォイエルバッハは、実践というのは現実的な利害関係にまみれているとして避けました。しかし、これまでも述べてきたように、人間は自然的、社会的諸関係に規定されているため、そこから離れた形での理解など不可能なのです。ですから、人間にとって社会的生活は本質的に実践的であるわけです。フォイエルバッハはここで言う神秘主義へと誘い込まれた訳ですが、あらゆる理論は現実的な、ブルジョア社会の下で思考されます。であるからこそ、そのブルジョア的、資本主義的イデオロギーに必ず影響を受けてしまう訳です。
そうした神秘を理解するには、人間の実践、そして実践の概念的把握において理解する以外には方法がない、とマルクスは述べている訳です。実践を通じて、「何故われわれは理論をこの様に考えたのか」と問うことによって、ブルジョア的イデオロギーの影響をそこに見ることができる訳です。
(6)
フォイエルバッハは宗教の本質を人間の本質へと解消する。しかし、人間の本質とは個々の個人の内部に宿る抽象物なのではない。それは、その現実の在り方においては、社会的諸関係の総体(アンサンブル)なのである。
フォイエルバッハはこうした現実的本質の批判に立ち入らないので、否応なく、
〈1〉歴史的な工程を無視し、宗教的心情をそれだけで固定化し、抽象的な――孤立化した――人間の個体を前提とせざるをえない。
〈2〉したがって、本質はただ「類」として、多くの個人たちを自然的に結び付けている、内なる、物言わぬ普遍性として、捉えられうるにすぎない。
(7)
したがって、フォイエルバッハは、「宗教的心情」それ自体が一つの社会的産物であるということを、また、彼が分析する抽象的個人が一定の社会形態に属していることを見ない。
さて、このテーゼ6は廣松渉が「マルクスが本質主義を乗り越えた」と言ったものです。しかし、マルクスの本質主義の乗り越えは実はこれよりも前に行われていました。
ここでのポイントはむしろ、フォイエルバッハの感性概念が帰結する社会認識への批判にあると言えるでしょう。フォイエルバッハにおいて人間と人間の結びつきは、彼が原理的基礎とする感性に基づいています。しかし、今までのテーゼでも述べてきたように、人間は現実の感性的存在としてありのままに存在するのではなく、自然的及び社会的諸関係の産物としてしか存在しません。であるにも拘らず、フォイエルバッハは人間の感性自体がうける規定性を無視し、社会的、自然的諸関係から遊離した抽象的な感性に基づいて思考してしまう訳です。マルクスは、このような諸関係からの被規定性を欠落させた感性にもとづいた人間を指して「抽象的な――孤立化した――人間の個体を前提」していると述べたわけです。
フォイエルバッハが、ありのままの感性的人間として捉えたものは、決してアプリオリなものではなく、既に自然的及び社会的諸関係によって規定されており、諸関係の産物なのです。ですから、本当は社会的諸関係の産物である「宗教的心情」をア・プリオリなものだと考えてしまう訳です。
従って、フォイエルバッハは、人間の本質を措定し、それは「「類」として、多くの個人たちを自然的に結び付けている、内なる、物言わぬ普遍性として、捉えられうる」といった次元で終わってしまう訳です。
テーゼ7で述べられていることは、もうすでにおわかりかと思います。フォイエルバッハが、「宗教的心情」それ自体が一つの社会的産物であるということを見ないのは、彼が、人間は現実の感性的存在としてありのままに存在すると考え、自然的及び社会的諸関係の産物としてしか存在しないということを見ないからです。
(8)
あらゆる社会的生活は本質的に実践的である。理論を神秘主義へと誘い込むあらゆる神秘は、人間の実践およびこの実践の概念的把握において合理的に解き明かされる。
このテーゼも今までの話を総合すると全く問題なく理解できます。フォイエルバッハは、実践というのは現実的な利害関係にまみれているとして避けました。しかし、これまでも述べてきたように、人間は自然的、社会的諸関係に規定されているため、そこから離れた形での理解など不可能なのです。ですから、人間にとって社会的生活は本質的に実践的であるわけです。フォイエルバッハはここで言う神秘主義へと誘い込まれた訳ですが、あらゆる理論は現実的な、ブルジョア社会の下で思考されます。であるからこそ、そのブルジョア的、資本主義的イデオロギーに必ず影響を受けてしまう訳です。
そうした神秘を理解するには、人間の実践、そして実践の概念的把握において理解する以外には方法がない、とマルクスは述べている訳です。実践を通じて、「何故われわれは理論をこの様に考えたのか」と問うことによって、ブルジョア的イデオロギーの影響をそこに見ることができる訳です。
2009年12月17日
理論と現実(実践)との関係3 〜テーゼを参照項にして〜
今回はテーゼの4、5です。
(4)
フォイエルバッハは宗教的な疎外、つまり宗教的世界と世俗的世界とへの世界の二重化という事象から出発する。彼の仕事は宗教的世界をその世俗的な基礎へと解消するところにある。だが、世俗的な基礎がそれ自身から浮遊して、雲の中に自律的な国が固定されるということは、この世俗的な基礎の自己分裂・自己矛盾からしか説明できない。したがって、この基礎そのものがそれ自身において、基礎そのものの矛盾のうちで理解されなければならず、また実践的に革命されなければならない。それゆえ、たとえば地上の家族が聖家族の秘密だと暴かれたからには、今度は地上の家族そのものが理論的・実践的に解体されなければならない。
このテーゼの中に出てくる疎外、という概念についてまず知っておかなければなりません。疎外とはもともとヘーゲルの概念です。ヘーゲルによる概念的な定義は、人間の内実が対象化され、それが自らから離れていく、或いは敵対的な関係となって現われてくる、ということです。身近な例で言うとここでも言われている様に、宗教なんかがそうです。宗教は人間が作り出したものですが、しかし中世には教会が絶対的な権力を持って、神という名の下に逆に人々を支配するようになっていきました。これが1文目で言っていることです。宗教的世界を生み出し、世界を二重化したが、逆に、宗教的世界によって支配されるようになった、ということです。
2文目で言っていること、それはマルクスが資本論で「分析によって宗教的幻影の現世的核心を見出す」と述べていることに当たります。フォイエルバッハは、宗教を生み出した理由を人間の本質(類的能力へのあこがれ)にある、と考えたのです。
しかしながら、これはマルクスの批判の対象になります。3文目ではそういったことを述べています。マルクスは、唯物論の方法は、「分析によって宗教的幻影の現世的核心を見出す」のではなくて、「現実的生活諸関係からその天国化された諸形態を説明する」(資本論より)ことだと考えました。つまり、宗教が出てきた理由を人間の本質などというものに還元するのではなくて、なぜ、宗教が作り出されたのかを現実的な生活諸関係から説明しなければならないと考えたわけです。彼は、現実的な生活諸関係、社会的諸関係(賃労働と資本の関係など)などにおける諸矛盾が、天国化された諸形態を生み出す、と考えたのです。将にこれこそが、マルクスと従来の唯物論との決定的な違いです。
従って、ここで皮肉的に言っている言い方を用いれば、マルクスは天国化された形態である聖家族が生み出された理由が、地上の家族にあると分かれば、その地上の家族そのものが理論的・実践的に解体されなければならない、と考えたのです。
(5)
フォイエルバッハは抽象的な思考で満足せず、直観を欲する。しかし彼は感性を、実践的な、人間的・感性的な活動として捉えることをしない。
テーゼの5は簡単でしょう。これは、もうすでにテーゼ1の中で説明してしまったことです。
人間の思考をも抽象にすぎない、と考えるフォイエルバッハは、直観を求める訳ですが、人間的活動を現実的な利害関係にまみれていると考える彼は、感性を実践的な活動として捉えることをしようとはしませんでした。自らもブルジョア社会の諸関係にいることを忘れ、ある種、超越的審級にたって、教育者として振舞おうとする彼は、実践的な活動を軽視し、汚らしいユダヤ的な現象形態としてしか捉えることができなかった訳です。つまり、フォイエルバッハの啓蒙主義に対してマルクスは批判しているのです。
今回の4は非常に重要なところだと思います。そして、初めにも述べた様に、1〜3もやはり重要だと考えています。5は今までの話を軽くまとめてみました。
次回は廣松が「マルクスが本質主義を乗り越えた」と評価しているテーゼの6です。
(4)
フォイエルバッハは宗教的な疎外、つまり宗教的世界と世俗的世界とへの世界の二重化という事象から出発する。彼の仕事は宗教的世界をその世俗的な基礎へと解消するところにある。だが、世俗的な基礎がそれ自身から浮遊して、雲の中に自律的な国が固定されるということは、この世俗的な基礎の自己分裂・自己矛盾からしか説明できない。したがって、この基礎そのものがそれ自身において、基礎そのものの矛盾のうちで理解されなければならず、また実践的に革命されなければならない。それゆえ、たとえば地上の家族が聖家族の秘密だと暴かれたからには、今度は地上の家族そのものが理論的・実践的に解体されなければならない。
このテーゼの中に出てくる疎外、という概念についてまず知っておかなければなりません。疎外とはもともとヘーゲルの概念です。ヘーゲルによる概念的な定義は、人間の内実が対象化され、それが自らから離れていく、或いは敵対的な関係となって現われてくる、ということです。身近な例で言うとここでも言われている様に、宗教なんかがそうです。宗教は人間が作り出したものですが、しかし中世には教会が絶対的な権力を持って、神という名の下に逆に人々を支配するようになっていきました。これが1文目で言っていることです。宗教的世界を生み出し、世界を二重化したが、逆に、宗教的世界によって支配されるようになった、ということです。
2文目で言っていること、それはマルクスが資本論で「分析によって宗教的幻影の現世的核心を見出す」と述べていることに当たります。フォイエルバッハは、宗教を生み出した理由を人間の本質(類的能力へのあこがれ)にある、と考えたのです。
しかしながら、これはマルクスの批判の対象になります。3文目ではそういったことを述べています。マルクスは、唯物論の方法は、「分析によって宗教的幻影の現世的核心を見出す」のではなくて、「現実的生活諸関係からその天国化された諸形態を説明する」(資本論より)ことだと考えました。つまり、宗教が出てきた理由を人間の本質などというものに還元するのではなくて、なぜ、宗教が作り出されたのかを現実的な生活諸関係から説明しなければならないと考えたわけです。彼は、現実的な生活諸関係、社会的諸関係(賃労働と資本の関係など)などにおける諸矛盾が、天国化された諸形態を生み出す、と考えたのです。将にこれこそが、マルクスと従来の唯物論との決定的な違いです。
従って、ここで皮肉的に言っている言い方を用いれば、マルクスは天国化された形態である聖家族が生み出された理由が、地上の家族にあると分かれば、その地上の家族そのものが理論的・実践的に解体されなければならない、と考えたのです。
(5)
フォイエルバッハは抽象的な思考で満足せず、直観を欲する。しかし彼は感性を、実践的な、人間的・感性的な活動として捉えることをしない。
テーゼの5は簡単でしょう。これは、もうすでにテーゼ1の中で説明してしまったことです。
人間の思考をも抽象にすぎない、と考えるフォイエルバッハは、直観を求める訳ですが、人間的活動を現実的な利害関係にまみれていると考える彼は、感性を実践的な活動として捉えることをしようとはしませんでした。自らもブルジョア社会の諸関係にいることを忘れ、ある種、超越的審級にたって、教育者として振舞おうとする彼は、実践的な活動を軽視し、汚らしいユダヤ的な現象形態としてしか捉えることができなかった訳です。つまり、フォイエルバッハの啓蒙主義に対してマルクスは批判しているのです。
今回の4は非常に重要なところだと思います。そして、初めにも述べた様に、1〜3もやはり重要だと考えています。5は今までの話を軽くまとめてみました。
次回は廣松が「マルクスが本質主義を乗り越えた」と評価しているテーゼの6です。
2009年12月16日
理論と現実(実践)との関係2 〜テーゼを参照項にして〜
今回はテーゼの3です。
(3)
環境の変革と教育に関する唯物論の学説は、環境が人間によって変革され、教育者自身が教育されなければならないことを忘れている。それゆえ、この学説は、社会を二つの部分に――その一方は他方の上に超然としている――分けざるを得ない。
環境の変更と人間的活動の変更ないし自己変革とが帰一すること、これは革命的実践としてのみとらえることができ、また合理的に理解することができる。
ここはテーゼの中でもかなり重要な部分です。
まず、環境と教育、従来の唯物論との関係を述べておきたいと思います。従来の唯物論でも、人間は環境によって規定されるということは認識されていました。であるからこそ、教育も重要だという風にされてきました。それによって教育者としての教養人が、教育を受ける立場としての労働者、大衆を教育する、という考えを持っていました。
例えば18世紀の哲学者エルベシウスは「環境を変革しないと、社会主義的な人間は生まれてこない」という様なことを言っています。
これに対し、マルクスの批判は、「教育者自身が教育されなければならない」ということを言っています。これは何を意味しているのでしょうか。
教育者自身も教育されなければならないということは、教育者もまた、何か欠けている部分がある、ということです。教育者と被教育者に共通することは、ブルジョア社会に生きているということです。つまり彼は何が言いたかったかというと、教育者もまた、彼の持つ認識にはブルジョア社会的、資本主義的イデオロギーが反映されている、ということなのです。それも無意識に。(この点は資本論における物象化論の重要な争点です)ということは、現実的な利害関係から離れて、周囲の環境を直観によって理解したとしても、人間である限り環境に属する動物な訳ですから、その認識には資本主義社会のイデオロギーが必ず反映されてしまっているのです。
こういったことを考えることなく、従来の唯物論者は社会を二つに分けて(教育者と被教育者)考えてしまうわけです。
ということはこれを敷衍してこういうことが言えます。フォイエルバッハは、テーゼ1でも指摘した様に、認識を変えれば社会は変わる(彼は認識によって宗教世界と現実世界の転倒を直すことができる、と考えた)と考えました。然し、マルクスは、認識それ自体は環境に依拠しているため、そういったなかで歪められてしまった理論、思想、観念に頼って社会を変えるのは無理だと考えました。つまり、認識によって現実的諸関係を超克しようとしたところで、そもそもその認識が現実的制約によって歪められているので、正しいとは限らないし、むしろ間違っている場合が多い訳だから、その認識の歪みは実践を通じて、実際に社会を変革していくという行動を通じてでしか、正しようがないというわけです。ですから、理論、思想、観念というのは現実的な諸矛盾の中でしか意味を持たず、これに基礎を据えなければならない、ということです。
4は長いのでまた後日。
(3)
環境の変革と教育に関する唯物論の学説は、環境が人間によって変革され、教育者自身が教育されなければならないことを忘れている。それゆえ、この学説は、社会を二つの部分に――その一方は他方の上に超然としている――分けざるを得ない。
環境の変更と人間的活動の変更ないし自己変革とが帰一すること、これは革命的実践としてのみとらえることができ、また合理的に理解することができる。
ここはテーゼの中でもかなり重要な部分です。
まず、環境と教育、従来の唯物論との関係を述べておきたいと思います。従来の唯物論でも、人間は環境によって規定されるということは認識されていました。であるからこそ、教育も重要だという風にされてきました。それによって教育者としての教養人が、教育を受ける立場としての労働者、大衆を教育する、という考えを持っていました。
例えば18世紀の哲学者エルベシウスは「環境を変革しないと、社会主義的な人間は生まれてこない」という様なことを言っています。
これに対し、マルクスの批判は、「教育者自身が教育されなければならない」ということを言っています。これは何を意味しているのでしょうか。
教育者自身も教育されなければならないということは、教育者もまた、何か欠けている部分がある、ということです。教育者と被教育者に共通することは、ブルジョア社会に生きているということです。つまり彼は何が言いたかったかというと、教育者もまた、彼の持つ認識にはブルジョア社会的、資本主義的イデオロギーが反映されている、ということなのです。それも無意識に。(この点は資本論における物象化論の重要な争点です)ということは、現実的な利害関係から離れて、周囲の環境を直観によって理解したとしても、人間である限り環境に属する動物な訳ですから、その認識には資本主義社会のイデオロギーが必ず反映されてしまっているのです。
こういったことを考えることなく、従来の唯物論者は社会を二つに分けて(教育者と被教育者)考えてしまうわけです。
ということはこれを敷衍してこういうことが言えます。フォイエルバッハは、テーゼ1でも指摘した様に、認識を変えれば社会は変わる(彼は認識によって宗教世界と現実世界の転倒を直すことができる、と考えた)と考えました。然し、マルクスは、認識それ自体は環境に依拠しているため、そういったなかで歪められてしまった理論、思想、観念に頼って社会を変えるのは無理だと考えました。つまり、認識によって現実的諸関係を超克しようとしたところで、そもそもその認識が現実的制約によって歪められているので、正しいとは限らないし、むしろ間違っている場合が多い訳だから、その認識の歪みは実践を通じて、実際に社会を変革していくという行動を通じてでしか、正しようがないというわけです。ですから、理論、思想、観念というのは現実的な諸矛盾の中でしか意味を持たず、これに基礎を据えなければならない、ということです。
4は長いのでまた後日。
2009年12月15日
理論と現実(実践)との関係1 〜テーゼを参照項にして〜
今回の日記は、なぜ理論と現実(実践)との関係について考えてみたいと思います。現在の社会を分析する理論などは当然必要でしょう。しかしそういった理論を構築していく上で、現実での実践というのはなぜ必要なのかを考えてみたいと思います。(テキストクリティークをするつもりはありません)
ここで参考にするのはフォイエルバッハ・テーゼと呼ばれる、マルクスが1845年の春〜秋(この時期に関しては論争がある)に書いたものです。
彼はこのテーゼの中で、自分の唯物論はそれまでの唯物論(フォイエルバッハのものも含む)とは根本的に違う立場であると述べています。そして、何故理論に実践が必要なのかを理論的に書いています。
では早速見ていきましょう。
(1)
従来のあらゆる唯物論(フォイエルバッハのそれも含めて)の主要な欠陥は、対象が、つまり現実、感性が、ただ客体ないし直観の形式でのみとらえられ、感性的・人間的な活動、実践として、主体的に捉えられていないことである。それゆえ、活動的側面は〈観念〉抽象的に、唯物論とは反対に観念論――これはもちろん現実的・感性的な活動そのものを知らない――によって展開される。フォイエルバッハが欲するものは感性的な――思考された客体から現実的に区別される、客体である。しかし、彼は、人間的活動それ自身を対象的活動として捉えることをしない。だから彼はキリスト教の本質の中で、理論的な態度だけを真に人間的なものとみなし、他方、実践はただ、その汚らしいユダヤ的な現象形態において捉えられ、固体化されることになる。それゆえ、彼は、「革命的」活動、「実践的・批判的」活動の意義を把握しない。
まずフォイエルバッハの唯物論がどういったものであったのか、という理解が必要です。フォイエルバッハの唯物論は簡単に言うとこうなります。
フォイエルバッハは、実際に世の中にいる人間に立脚してものごとを考えるという立場をとっていました。そして物事を把握、理解する仕方は、直観によって行う、というものでした。直観というのは、ただ見て理解する、という意味合いです。
そしてフォイエルバッハは、実践的な現世の利害関係にまみれたところから離れて、教養のある人間が(もちろんフォイエルバッハ自身も含まれる)直観によって対象を把握、理解すれば、対象的な真理は得られるのだという考えをとっていました。
ここで、具体的に、フォイエルバッハの宗教批判の例をあげて考えてみましょう。
フォイエルバッハの宗教批判はマルクス流に言えば、「分析によって宗教的幻影の現世的核心を見出す」(資本論より)ことでした。つまり、宗教というのは幻想に過ぎない訳だが、それは人間が本質的に内在している性質(人間の類的能力へのあこがれ)が宗教を生み出すので、そういった関係をすべての人が認識すれば、宗教というものは乗り越えられる、という批判です。
さてこれがフォイエルバッハの唯物論の簡単な内容ですが、次はテーゼ本文を見ていきましょう。
一般的に言われる対象というのは、人間に相対しているものであり、それは観念なども含まれています。しかし、ここでは実際に人間に対して存在しているモノが想定されています。
ここでの感性とは、フォイエルバッハの言う感性ですが、この感性は人間の知覚は当然、感情なども含むものです。そしてここでは対象、現実、感性がほぼ同じ意味で使われています。
このテーゼ1をまとめてみると、こうなります。
フォイエルバッハの唯物論では、対象は感性的な直観によって理解できるので、人間の主体的な活動を捉えることをしない。であるから、その活動的な部分は観念論(ここではヘーゲルを想定しているが)によって捉えられる。人間の思考なども抽象に過ぎないと考えるフォイエルバッハは、感性的な客体しか直観の対象としない。しかしながら、その客体には人間的な活動は含まれていない。というのは、フォイエルバッハは、人間的な活動、すなわち実践というのは現実的な利害関係にまみれているので、真理を直観によって理解する為には、そういった現実的な利害関係から離れなければならないと考えるからである。だから、フォイエルバッハは実践的な活動の重要性というのを理解しないのだ。
(2)
人間の思考に――対象的真理が属する(この動詞を”到来する”と訳す解釈もある)かどうか――という問題は、理論の問題ではなく、実践的な問題である。実践において人間は自らの思考の真理性を、すなわち思考の現実性と力を、思考がこの世のものであることを、証明しなければならない。思考の現実性と非現実性をめぐる争いは――実践から遊離されている思考は――純粋にスコラ的な問題である。
このテーゼ2は、テーゼ1の最後をうけています。ですから関連させて読むと、ほぼテーゼ1で言わんとしている内容がそのまま書かれていると読むことができます。テーゼ2は簡単なので、軽く要約するだけにしますが、ここで言おうとしていることは後にも出てきます。私はこのテーゼ2で言っていることはフォイエルバッハ・テーゼ全体に貫徹されている課題であり、非常に重要だと思います。要は、実践から遊離した思考というのはスコラ的、つまり無意味だと言っているのです。
このテーゼの1〜2の内容は後半のテーゼを含めて考えないとよく分からないので、後半のテーゼまでお付き合い頂ければ内容がよくわかると思います。特にこのテーゼ2は他のテーゼを理解しながら読まないと一見、至極当たり前のことを言っている様に思ってしまいます。
テーゼの3〜11はまた後日。
ここで参考にするのはフォイエルバッハ・テーゼと呼ばれる、マルクスが1845年の春〜秋(この時期に関しては論争がある)に書いたものです。
彼はこのテーゼの中で、自分の唯物論はそれまでの唯物論(フォイエルバッハのものも含む)とは根本的に違う立場であると述べています。そして、何故理論に実践が必要なのかを理論的に書いています。
では早速見ていきましょう。
(1)
従来のあらゆる唯物論(フォイエルバッハのそれも含めて)の主要な欠陥は、対象が、つまり現実、感性が、ただ客体ないし直観の形式でのみとらえられ、感性的・人間的な活動、実践として、主体的に捉えられていないことである。それゆえ、活動的側面は〈観念〉抽象的に、唯物論とは反対に観念論――これはもちろん現実的・感性的な活動そのものを知らない――によって展開される。フォイエルバッハが欲するものは感性的な――思考された客体から現実的に区別される、客体である。しかし、彼は、人間的活動それ自身を対象的活動として捉えることをしない。だから彼はキリスト教の本質の中で、理論的な態度だけを真に人間的なものとみなし、他方、実践はただ、その汚らしいユダヤ的な現象形態において捉えられ、固体化されることになる。それゆえ、彼は、「革命的」活動、「実践的・批判的」活動の意義を把握しない。
まずフォイエルバッハの唯物論がどういったものであったのか、という理解が必要です。フォイエルバッハの唯物論は簡単に言うとこうなります。
フォイエルバッハは、実際に世の中にいる人間に立脚してものごとを考えるという立場をとっていました。そして物事を把握、理解する仕方は、直観によって行う、というものでした。直観というのは、ただ見て理解する、という意味合いです。
そしてフォイエルバッハは、実践的な現世の利害関係にまみれたところから離れて、教養のある人間が(もちろんフォイエルバッハ自身も含まれる)直観によって対象を把握、理解すれば、対象的な真理は得られるのだという考えをとっていました。
ここで、具体的に、フォイエルバッハの宗教批判の例をあげて考えてみましょう。
フォイエルバッハの宗教批判はマルクス流に言えば、「分析によって宗教的幻影の現世的核心を見出す」(資本論より)ことでした。つまり、宗教というのは幻想に過ぎない訳だが、それは人間が本質的に内在している性質(人間の類的能力へのあこがれ)が宗教を生み出すので、そういった関係をすべての人が認識すれば、宗教というものは乗り越えられる、という批判です。
さてこれがフォイエルバッハの唯物論の簡単な内容ですが、次はテーゼ本文を見ていきましょう。
一般的に言われる対象というのは、人間に相対しているものであり、それは観念なども含まれています。しかし、ここでは実際に人間に対して存在しているモノが想定されています。
ここでの感性とは、フォイエルバッハの言う感性ですが、この感性は人間の知覚は当然、感情なども含むものです。そしてここでは対象、現実、感性がほぼ同じ意味で使われています。
このテーゼ1をまとめてみると、こうなります。
フォイエルバッハの唯物論では、対象は感性的な直観によって理解できるので、人間の主体的な活動を捉えることをしない。であるから、その活動的な部分は観念論(ここではヘーゲルを想定しているが)によって捉えられる。人間の思考なども抽象に過ぎないと考えるフォイエルバッハは、感性的な客体しか直観の対象としない。しかしながら、その客体には人間的な活動は含まれていない。というのは、フォイエルバッハは、人間的な活動、すなわち実践というのは現実的な利害関係にまみれているので、真理を直観によって理解する為には、そういった現実的な利害関係から離れなければならないと考えるからである。だから、フォイエルバッハは実践的な活動の重要性というのを理解しないのだ。
(2)
人間の思考に――対象的真理が属する(この動詞を”到来する”と訳す解釈もある)かどうか――という問題は、理論の問題ではなく、実践的な問題である。実践において人間は自らの思考の真理性を、すなわち思考の現実性と力を、思考がこの世のものであることを、証明しなければならない。思考の現実性と非現実性をめぐる争いは――実践から遊離されている思考は――純粋にスコラ的な問題である。
このテーゼ2は、テーゼ1の最後をうけています。ですから関連させて読むと、ほぼテーゼ1で言わんとしている内容がそのまま書かれていると読むことができます。テーゼ2は簡単なので、軽く要約するだけにしますが、ここで言おうとしていることは後にも出てきます。私はこのテーゼ2で言っていることはフォイエルバッハ・テーゼ全体に貫徹されている課題であり、非常に重要だと思います。要は、実践から遊離した思考というのはスコラ的、つまり無意味だと言っているのです。
このテーゼの1〜2の内容は後半のテーゼを含めて考えないとよく分からないので、後半のテーゼまでお付き合い頂ければ内容がよくわかると思います。特にこのテーゼ2は他のテーゼを理解しながら読まないと一見、至極当たり前のことを言っている様に思ってしまいます。
テーゼの3〜11はまた後日。